自然の幾何学 抜粋

1 星の輝き
物理学という学問の源流はどこにあるのだろうか。もちろん近代物理学という意味であれば、それはガリレオやニュートンの生きた17世紀のヨーロッパに夜明けをみる。しかし、もう少し原始的な意味での物理学、人々がこの流転する世界の奥底に、眼に見えるもの以上の秩序を感じはじめたのは、この地球上の、一体いつ、どこに於いてだったのだろうか。そんな止めどもない想いを巡らせながら、夜、床について眼を瞑ると、時々ふと、紀元前の星空がまぶたの裏へと浮かんでくる。地上の闇が、鋭い都市の光ではなく、柔らかな星の光に灯されていたあの頃、夜空を隙間なく敷きつめる無数の星々は、今よりずっと深い煌めきをもって人々の眼に映り込んでいた。星雲から放たれる光は、バビロニアの砂漠の上にも、ギリシャの地中海の上にも、地球上のどこにも等しく降りそそぐ。その畏怖すら覚える静かな光に誘われて、世界中の眼差しが夜空に交差していた時代である。

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8 大海と風景

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今まで気付かずにいた物事の繋がりや関連性に気付いたとき、この世界の底知れぬ深みに、思わず戦慄してしまう。今の私の眼には、この世界の表層のみが映っている。それ故、それぞれの物が、それぞれ別個に存在しているよう感ぜられている。しかし実のところ、今の私には見えない深淵において全ての物事は深く通じあっていて、目の前に広がる全ては、本当は分け隔てられないひとつなのではないか。そのような気持ちが、どうしようもなく沸き立ってくる。こうした気持ちは、この地球を覆う大海の存在に気付いたとき感じるあの気持ちに、どこか似ている。
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私達はこの身体とともに局所を生きる小さな存在であるから、この世界のすべてを一度に眺めるなどということはできはしない。私達が感じることができるのは、その都度その都度、眼の前に開けてくる、ひとつひとつの小さな風景だけである。しかし、こうしたひとつひとつの風景は、私の与り知らぬところで互いに繋がり合っていて、全体としての大きなひとつを為しているのである。

この世界は、多様でありながらも一つである。一つでありながらも多様である。この小さな私が、この大きな世界に、今此処で出会うこと。そのことによって、いくつもの私的な風景が、ぽつりぽつりと生まれ落ちる。

 

13 ガリレオの温度計

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アルキメデスの天才性は、数学世界と物理世界、視覚と体性感覚、こうした異なる世界、異なる感覚をどんどん越境していく、その共感覚のうちに宿っていたのである。

アルキメデスの場合に限らず、こうした異なる感覚の結びつきこそが、物理学の進展を支えてきたと言っても過言ではないだろう。実際、今や物理学の根幹を為しているエネルギー概念は、17世紀のガリレオが発明した「温度計」を契機に誕生したのであった。今ではあまりに身近な計測機器となったが故に、それがどれほど画期的なものであるかは忘れられがちであるが、熱さや冷たさといった本来であれば肌で感じられていた感覚を、温度というかたちで計測可能にしてくれたのが、温度計という発明なのである。この発明が人々の「熱」に対する認識にどれだけ影響を与えたのかは、それこそ計り知れない。

ガリレオが温度計を発明するにあたって利用したのは、ものは暖まると膨張し、冷えると収縮するという観測事実であった。現在普及している水銀温度計も、やはりこの事実を利用している。水銀が暖まると膨らみ、冷えると縮むが故に、部屋の暖かさに応じて水銀メーターが上り下がりし、それを以て私たちは部屋の温度を知るのである。結局ガリレオは、温度変化と体積変化を関係づけることによって温度計を発明したのであり、ここにおいて、私たちが温度を感じる肌の感覚と、体積を感じる眼の感覚とが、固く結ばれることになった。温度計は、眼と肌による共感覚思考を喚起したのである。温度計の発明は熱力学と呼ばれる新たな学問を生み出し、この熱力学という学問においてこそ、エネルギー保存則やエントロピー増大則という、今でも物理学の基礎をなしている重要概念が育まれていったのである。

14 エネルギーとエントロピー

エネルギー保存則とエントロピー増大則、これらの法則を言葉だけで語り尽くすことは殆ど不可能に近いが、それでも説明を試みるならば、エネルギー保存則というのは、「この何もかもが生々流転していく世界において、それでもエネルギーは変わらずそこに留まり続ける」ということを教えてくれる法則である。この世界に生じる変化や運動に関心を払っているはずの物理学者が、エネルギーのような「変わらないもの」を大事にしていることは、意外に感ぜられるかもしれない。確かに、眼に映りゆくものは絶えずその変化を続けている。しかし、逆説的に響くかもしれないが、そうした変化を根底で支えているのは、それ自身は変化をしない何かなのである。それは、変わらぬ軸を持って生きている人ほど、反ってその人生においては多様で豊かな変化を遂げていくということに喩えられるかもしれない。こうした、不変を通じて変化に触れていく感覚を以てして、物理学者はこの世界を感じているのである。

しかしその一方で、私たちが生きる現実には、時間の流れとでも言えるような、それを塞き止めることはできない大きな流れが、確かに存在している。冬の日の玄関におかれた雪だるまは、春の日射しのもとにその生命を解かしきってしまうし、ポーションミルクの落とされた珈琲において、その白と黒とが混じりゆくことを止められはしない。この世界は、決して後戻りのできない不可逆性に満ちている。砂時計がその降り積もる砂によって、遡行することなき時の流れを表現するように、絶えず増大していくエントロピーによって、ある種の現象の不可逆なる流れを表現しているのが、エントロピー増大則である。

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15 行為と思索
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物理学における思索とは、こうした共感覚へと根ざす身体的なものなのである。

このような身体性が育まれてきた背景としては、身体を通じてこの世界と触れあいながら思考した技術士アルキメデスを代表とした、手で物事を考える職人や芸術家たちの存在が大きかった。実際、今に繋がる近代物理学の成立は、こうした職人や芸術家の存在無しにはあり得なかったのである。詳しくは山本義隆の『十六世紀文化革命』や『磁力と重力の発見』に譲ることとしたいが、芸術家が自然を表現する技法、技術者が自然に働きかける手順、あるいは魔術師が自然の秘力を暴きだす術式や、宗教家がこの自然に秩序を求める信仰心、こうした千差万別の職業人の身体性や心性が重なりあうところに、近代物理学は芽生えてきたのである。つまり物理学の身体というのは、こうした多数の身体の錯綜体として存在するのであって、物理学の身体に宿る共感覚の決して少なくはない部分は、彼らの身体から受け継がれたものなのである。

物理学者が技術者や職人から受けとった身体思考の方法として取り分け重要なのは、やはり実験を通じた思考法だろう。学校の授業では、正しく操作すれば正しい結果のでる正しい実験しか行わないため、「実験というのは理論的事実を確認するための退屈な作業に過ぎない」という誤った印象が流布しているが、そうではない。自分の頭や身体だけで考えられないことを、自然そのものに教えてもらう、あるいは自然に一緒に考えてもらう、そのために積極的に自然へと働きかけていくことこそが、実験という営みの本意である。自然という物言わぬものの声に耳を澄まし、この自然と一体となって大きく物事を考えていくこと、実験とは本来かように創造的な営みなのである。

 

自然と共に何かを考え、そして創造するということに関して希有な才能を見せたのは、1852年から1926年のスペインはカタルーニャに生きた建築家、アントニオ・ガウディであった。

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19 創造の起源に還る
今一度、ガウディの言葉を振り返りたい。

 

人間は何も創造しない。ただ、発見するだけである。

新しい作品のために自然の秩序を求める建築家は、神の創造に寄与する。

故に独創とは、創造の起源に還ることである。

 

ガウディは、自然がみせる表面的な美しさを発見しただけではない。その形が如何なる意味を持っているのか、自然が如何にしてその形を生みだしたのか。ガウディは、眼に見える自然の向こう側に、眼に見えている以上の秩序を、確かに眼差していた。そして、自ら新たな形を創造するのでなく、自然の秩序へと寄り添い、自然と自らを重ねゆくことによって、自然の創造へと寄与していくこと、それこそが、ガウディの歩んだ道なのであった。その道は、この自然の声なき声に耳を澄まし、自然と一体となってものごとを考えていく物理学の道と、遠い地平線の先において交差している。

そして、このように自然と自身とを重ねていくうちに、私たちはふと思いだすのである。自然と人間とは、もともと分け隔てられないひとつだったんだということを。

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自然も、人間も、あらゆるものが、それを離れて存在するわけにはいかない秩序の中に生きて、死んでいく。だからこそ私たちは、見えないところで深く重なり合っていて、その重なりを以てして互いに感じあうことができる。
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本稿では、円錐を切断した数学者アポロニウス、形を式へと翻訳した哲学者デカルト、星の軌道を計算した物理学者ニュートン、そして創造の起源を徹底的に見つめなおした建築家ガウディ、色々な人々がこの世界の「形」へと寄せた視線を辿ってきた。その誰もが、異なるものを見つめていたようで、どこか遠いところで、それぞれの眼差しを交差させていた。私たちは、自分の心の中にある自然を以て、この世界と感応しあっている。だからこそ、この世界に対する眼差しを深めれば深めるほど、こうした心の中にあるものが露となってくる。私たちがこの世界の深層において目撃するのは、他ならぬ、私たちの心の自然そのものなのである。それが故に、眼差しを深めたもの同士、互いの心の自然が静かに、しかし確かに響き合うのである。

それぞれの人が、それぞれの道をゆく。それぞれの道をゆきながらも、その果てにある風景において、再び出会う。ここにある私の心と、あそこにいるあなたの心が、こともなげに響きあう。まるで、わたしとあなたがもともとひとつであったことを、ふと思い出すかのように。

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