松葉舎サロン Vol.5 甲野善紀先生(武術研究者)をお招きして

 

日時:9月29日(土)13:00-17:00
場所:Alleybase(最寄り駅:駒込)
費用:10,000円(支援金として)
募集人数:8名

 

 科学、数学、哲学。芸術、芸能、武術。建築、ダンス、ファッション。さまざまの分野で活躍されている先生をお招きし、その一流の感性に触れさせていただきたいとスタートした松葉舎のサロン。回を重ねるうちに、参加者の各々が異分野との交わりから刺激を受けて各々の探求の課題を発見する、まるで研究会のような時間になってきています。そんな松葉舎のサロン第5回のゲストとして、この度は、主として日本の古伝の武術を研究されている、武術研究者の甲野善紀先生にお出ましいただきます。

 テーマは「我ならざる我」。甲野先生はこの頃「意識している手足の動きと別に、実際の手足が我知らず動いている」体験に焦点を当て、その術理を発展させられています。「我」の意識を超えたところで私の手足を動かす「我ならざる我」の存在。意識して動かしているわけではないので、甲野先生ご自身にとっても「一体どう動いたのかわからない動き」。しかしこのような動きが、「我」の意識下においては有り得ない、驚くほど有効な技を生みだすといいます。「なぜ、きわめて有効な動きは、通常の意識下の延長線上での無意識下(つまり普通に言う習熟)では出来ないのか」。そうした動きを生みだす「我ならざる我」とは何か。

松葉舎講師・江本は、この度この「我ならざる我」という主題を、民藝における「無我・小我・大我」、身体性認知科学における「環境に漏れだした心」の文脈に結びつけて考えたいと思っています。

個人主義の時代、天才作家の「我」や「個性」を糧に発展していった美術品。それに対して民藝の思想は、民衆の作りだす「我」も「個性」もない工芸品の美を説きました。なぜ才もなき民衆が優れた作品を生み出せるのか。それは彼らが才なき故に彼らの我を脱しているからである。我を脱して何が良いのか。何も我そのものを否定するわけではない。小さな自我を棄てることで自然の大我がそこに活きてくるのだ。彼らは自己よりもさらに偉大なもののあることを信じていました。

「彼らは彼らの小において器を作るのではなく、自然の大が彼らに器を作らせている」
「すでに彼らの手が作るというよりも、自然が彼らの手に働きつつある」
「彼らは何事をも忘れつつ作る。笑いつつ語らいつつ安らかに作る。何を作るかを忘れつつ作る」
こうした民藝の言葉は、我ならざる我にその技を託す甲野先生の術理に通じるところがあるよう思います。

個人の殻を破り、自然の大と結びつく場所において何事かをなす。その発想はまた、心と身体の繋がりを探求してきた身体性認知科学の思想にも通じます。科学の発展に伴い、個人のうち、脳のうちに押し込められてきた心。それを今、身体をつうじて再び世界の広がりに開放すること。そうしてはじめて、自分独りでは想えない不思議を想い、感じられない美しさを感じ、考えられない物事を考えることができる。身体性認知科学はひとつの学問領域であることを超え、学問へと挑む姿勢そのものを私たちに教えてくれます。

古武術、民藝、身体性認知科学。取り組む対象は違えども、そこには分野を超えて探求されるべきひとつの知が隠れているよう思います。

 当日の流れとしては、はじめに甲野先生の技を実演いただきまして、その有効性と不思議とを身体で実感していく時間を予定しています。続いて、なぜそのような技が可能となるのかをみんなで考えていきたいのですが、こうした常識外の動きに対して「さあ考えましょう」というだけでは実際なかなか議論も進まないと思います。そこで間に江本からの身体性認知科学レクチャーを差しはさみ、議論の糸口にしたいと思います。もちろん、当日はこうした予定を外れてその場の展開が生じる、生成的な時間を過ごせれば何よりだと思っています。

松葉舎関係の十数名を中心とした少人数での研究会になりますが、この度はイベントサポーターとしてご参加いただける方を若干名(最大8名)募集いたします。支援金のご協力を頂ける方に、お礼としてこの度のイベントへのご招待を差し上げます。また他にも(1)差し支えなければ江本のツイッター・ホームページ上にお名前を掲載(2)ご希望の方には松葉舎の授業の資料を一部プレゼント(メールにてPDF添付)(3)今後開催される関係者限定のサロンや研究会にもサポーター枠を設けられる場合にはご連絡いたします。

イベント終了後には、甲野善紀先生を囲んでの懇親会(参加費別途)も予定しております。こちらも是非ご参加くださいませ。

 

お申込みは下記のフォームより、お名前、電話番号、懇親会の参加の有無を添えてよろしくお願いいたします。

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