装うこと、祈ること

 死者を悼み、そこに花を手向けることから服飾の歴史が始まったのではないか。そんなふうに考えたのは、2017年11月18日、東京都庭園美術館にて開催された山縣良和によるファッションショー『After Wars』を観ている最中のことだった。このショーで示されていたのは戦争の悲惨さでも、平和の尊さでもない。会場を包み込んでいたのは、爆撃を被って身体に傷を負い、大切な人を失ってこころに傷を負い、それでも前を向いて生きている人が身にまとう静謐で凛とした美しさである。ヒトの装いというものは、文化の余剰のなかで仕立てられるものではなく、生死の次元から直接に生まれいづるものなのではないか。服で身を飾ることの意味を、ヒトの生死に根ざすものとして考え始めている自分がそこにいた。

服飾の歴史がどこから始まったのかは定かでないが、「生きるための服」という意味ではすでにネアンデルタール人の時代より、人類は服を身にまとっていたと言われている。彼らが服を着たのは、おそらく北の大地に歩を進めるためだったろう。体毛を失うかたちで進化を遂げてきた人類が極寒の大地で生きていくには、身体を温めるための毛皮が必要であった。進化の過程で脱ぎ捨ててしまった体毛を、人類はふたたび「服」としてその身にまとったのである。しかし人類がこうした生存の目的を離れて「飾るための服」をまとい始めるのは、さらに時代が過ぎてのことである。7万5000年前の地層からは「貝殻のビーズ」が発掘されており、これに糸を通してネックレスにしていたのではと推測されている。少なくともこの時代までに「装飾」が始まっていたのは確かなようだ。

こうした太古の装飾品を身につけていたのは、なにも生者だけではない。スンギルの三万年前の埋葬地から発掘された二人の少年少女の骨格には、マンモスの牙を磨いて作られた1万を超える「珠」のアクセサリーが供えられていた。これだけの珠をこしらえるためには熟練職人の手をもってしても3年の年月を要すると言う。死んだものを悼む気持ちが人々の装飾するこころを加速していた。あるいは生者が身につける装飾品でさえ、それは死者に向けられたものだったのかもしれない。死者を弔う役目をもっていた祭司の墓には、他の人々に比べて多くの装飾品が供えられていることが多い。死者に向き合うものは、その身を美しく飾らなければならなかったのだろう。

装飾とは、美を祈りとして死者に捧げる行為である。それは同時に、大切な人に先立たれ胸に悲しみを抱えた人が、それでも前を向いて生きていくのに必要不可欠な、生者のための行為でもある。逝きしものの身を美しく飾ることで、ヒトは悲しみに溺れることなく、死者の逝く先での幸せを祈ることができる。自らを美しく飾ることで、ヒトは死者の魂を背中に感じ、前に一歩を踏み出すことができる。服飾というのはただの贅沢品ではない。死者の記憶を携えて生きるために、ヒトは美しくあらねばならなかった。

After Wars。戦後という困窮の時代、人目を気にして服を着る余裕はもはや人々に残されていなかったことだろう。それにも関わらず、この時代に「服飾」という営みが消えることはなかった。むしろそんな時代だったからこそ、死者を弔い、生者を生かし、死者と生者をつなぎとめるものとしての服飾の姿がいっそう顕になっていたのではないか。どんな時代にあってもヒトは、死者に花を手向け、自らの髪にも花を挿すことができる。たった一輪の花のなかに、ファッションの全てを込めて。

異端のデザイナーと評されることもおおい山縣良和であるが、人類学的な広がりのなかで見つめなおすとき、彼の差しだすものはどれもファッションの中心に限りなく接近しているよう見える。山縣良和の服飾を評して「これもファッションだ」というのではない。「これこそがファッションだ」といえる時代がやってくることを、僕は願っている。